不思議なもので

2011年08月27日

オカンが亡くなってから約2週間が経過した。
なのに もうそれが随分前のコトのように感じたりする 不思議なもんです。

さて あまりにも唐突だったオカンの病気。
以前の日記を読めばわかるけど 抗がん剤の効果もあり実際に順調だった。
通院の時だって オカンが診察する間 僕ら夫婦が病院前の池で釣りをして時間を潰して待っていると『今 診察が終わったので そこまで歩いて行くよ どの辺りで釣りしてるの?』なんて電話が入り 元気に自分の足で歩いてきてたからネ。

しかし 夏バテから一気に食欲低下 それに伴い体力も低下。
数日経っても食欲は戻らず 常に頭が痛いと寝てばかり その1週間後には 足腰も弱りトイレやお風呂だって自力でするのが難しくなってきて(のちに頭痛・食欲低下や足腰の衰弱が癌性髄膜炎のせいだとわかる)僕ら夫婦も介護のコトを真剣に考え始めていた。

そして ある日の朝 オカンが部屋で倒れていたのを嫁さんが発見。
すぐに病院に連絡をとって緊急入院。
オカンもコトの重大さに気付いたのか 入院してじっくりと治すコトを約束。
僕ら夫婦も親父も コレで少しだけ一安心だと思った。

しかし その3日後 オカンは意識不明の昏睡状態に入り集中治療室へ。

夏バテ~昏睡状態に至るまで たったの2~3週間。
たったソレだけの期間で 人はコレほど弱るもんなのかと思った。
集中治療室で意識のないオカンを目の前にして いろいろと伝えていないコトがあったので そのコトを夫婦で報告したけど オカンに目に見えるような変化は無かった・・・この時ばかりは さすがに我慢しきれずに涙が溢れてきたのを 今でもハッキリと覚えています。

その後 予断を許さない状況が数日続き 僕ら夫婦や親父も病院と自宅を行ったり来たり 病院の駐車場で車中泊をしたコトもあったし 夜に病院からの電話が入るたびに覚悟を決めつつ オカンの元にすぐに出向いたりと ぐっすりと眠るコトはなかった。
そして数日後 親父との相談の結果 そろそろ葬式の手配などをした方が良いと(お盆のまっただ中だったコトもあり)僕ら夫婦が方々に出掛け下調べや見積もりなどを出し 全ての準備が整った日の夜 まるで計ったかのごとく オカンは63歳の短い生涯を閉じた。

きっと準備が整うまで待ってくれてたんやろね?(笑

病気が発症してから半年 抗がん剤も効きガン細胞も小さくなったり 中には消滅したのもあった。
本人も主治医の先生さえも このまま回復に向かうだろうと思ってたのになぁ・・・
ホントに さぁコレから完治に向けて頑張りましょう!って時だったからね。

要因はいくつかあると勝手に分析(笑

まず死因である『癌性髄膜炎』が発見されずらいこと(詳細は検索してネ)
次に オカンに主導権を握らせすぎてしまったこと。

上で書いたように抗がん剤のおかげで 消滅した癌細胞もあり順調だった。
ただ 順調だったがために オカン自身が安心し過ぎてしまい また入院&検査を嫌っていたコトも手伝い オカンが自分の身体の異変について本音を出さなくなったコト また 治ると安心して先生が念のためになんて言うて入院や検査を勧めても まだ大丈夫だとか もう少しだけ先延ばしにしてほしいなどの言い訳を使い さらにソレらの詳細を僕ら家族に内緒にしていたコトが要因かと思った。

実際のところは 癌が髄膜に転移した時点で限りなくアウトらしいので 早期発見したところで何かが変わったとか思わないし もしオカン自身がソレをわかっていたら より死の恐怖と戦わなきゃいけなくなっていただろうから 何も知らないまま 痛みも苦しみも無いまま昏睡状態~死に至ったコトは むしろ幸せだったかも知れないと思っています。

今まで 何度か親類の死に出逢った。
大好きだった爺ちゃん婆ちゃん 可愛がってくれた叔父さんや伯母さん でも泣かなかった。
でもね さすがに実の母親となると全然違うね それに病気になってから たぶんオレ自身が一番近くで経過を見て来たってのもあってか 我慢しても我慢しきれない想いみたいなのが凄くあったと感じました。
やっぱり 自分はこの人の子供なんだなと ネ。

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